斗南藩名由来の原本が見つかる

斗南藩の由来は「外南部」の俗称?

07月03日 08:00デーリー東北

斗南藩の由来は「外南部」の俗称?

デーリー東北

(デーリー東北)

 戊辰(ぼしん)戦争で敗れた会津藩が明治初期、北奥羽地方に国替えとなって成立した斗南藩に関する研究が近年、新たな展開を見せている。これまで定説がなかった藩名「斗南」の由来について、「地名ではなく、北斗の南に位置する」「外南部という地元の俗称」と記された史料が見つかり、旧藩士たちによって当時の帝国議会に提出されたものであることが判明。それらの史料から、廃藩置県後の秩禄(ちつろく)処分を巡り、旧藩士が政府を相手に長期にわたって、藩政期の禄高(ろくだか)承認(復禄)を訴えていた事実も浮かび上がってきた。 ■史料次々と 一連の史料を見つけたのは、さいたま市在住の幕末史家伊藤哲也さん(48)。2014年、国立国会図書館が所蔵する明治期の大蔵省が作成した公文書に、青森県の聞き取り調査で「北斗ノ南ニ在ルノ意」「外南部ノ俗稱(称)」から名付けられたとの内容の記述を発見。当時の政府が、明治3(1870)年4月24日付でこの藩名を承認したとしている。 同じ14年、国立公文書館で旧藩士が政府を相手取って復禄を求めた訴訟の判決原本を確認。その2年後には、訴訟前の明治35(1902)年、斗南など各地の旧藩\xBB

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藩の体制を改めた際、大半が政庁のある土地の名を藩名とした。斗南のような新しい名前は江戸から移転して「駿河府中」を「静岡」とした徳川宗家などの例を除き、ほとんど見られないという。 落合教授は、新名とした理由について▽斗南藩庁が置かれた五戸や大湊が、中心地としては規模が小さかった▽新天地に根付く意気込みを込めたなどと推測した上で「本来の地名を基にしていないとすれば、他に何らかの思いを含めていたとしても不思議はない」と話した。【写真説明】国立公文書館(東京)所蔵の旧斗南藩士が作成、提出した復禄請願書類。「斗南」の由来について「北斗ノ南ニ在ルノ意」「外南部ノ俗稱(称)」との記述が見える